

Arisa Iida~エバーグリーン交響楽団×ヤープ・ヴァン・ズヴェーデン×エリック・ルーが拓く新たな地平~
飯田有抄(クラシック音楽ファシリテーター@podcast番組「大人の音楽三昧」)
オーケストラには、ときに「変わろうとする瞬間」が訪れる。伝統ある名門オーケストラの響きを味わうのも素晴らしい体験だが、誕生して間もないオーケストラの奏者一人一人が呼応し始め、個々の音が大きなひとつの意志をもった響きへと結実していく。その過程に立ち会うことも、オーケストラを聴く面白さのひとつだ。
台湾のエバーグリーン交響楽団(ESO)は、今まさに、そうした時期にある。
ESOは2001年、海運や航空事業で知られるエバーグリーン・グループの創業者、張榮發(チャン・ユンファ)が設立した張榮發基金会によって、20人ほどの楽団として発足した。翌2002年には80人を超えるフル編成の交響楽団へと発展。台湾で唯一、民間財団によって運営されるプロフェッショナル・オーケストラであり、世界的に見てもこうした形態の楽団は珍しい。
「台湾に根ざし、世界に開かれる」という理念のもと、地元の音楽家を育てながら海外公演を重ねてきたESOだが、近年、その歩みは新たな局面を迎えた。2025年から2年間のアーティスト・イン・レジデンスに、ヤープ・ヴァン・ズヴェーデンが就任したのである。ニューヨーク・フィル、香港フィル、ダラス響などを率いてきたこの指揮者を迎えた目的は、スター指揮者との華やかな共演だけにとどまらない。楽団側は、演奏水準のさらなる向上と台湾の若い音楽家の育成を明確な目標として掲げ、ズヴェーデン自身もオーディションや教育活動に深く関わっている。
つまり今回来日を果たすのは、完成された姿を披露するオーケストラというより、世界水準を見据えて、今まさに響きを磨き上げている集団なのである。
ズヴェーデンは、そうした仕事に格別の実績をもつ。ダラス響を約10年率い、香港フィルでは12シーズンにわたって音楽監督を務め、同団を国際的に知られる存在へと押し上げた。ESOも彼を、オーケストラの将来像を思い描き、それを現実の響きへと作り上げていく「master builder」と紹介している。
ズヴェーデンが生み出す緻密なアンサンブルと強い推進力、音楽全体を大きく捉える構築力。それらが、ラヴェル《ラ・ヴァルス》やショスタコーヴィチの交響曲第5番といった今回のプログラムで、どのような姿を見せるのだろう。華麗な舞踏が次第に崩壊へと傾いていく《ラ・ヴァルス》、巨大な振幅のなかに緊張と抒情とを抱えるショスタコーヴィチの5番。現在進行形で楽団を鍛えている指揮者だからこそ、ESOの「今」のサウンドを鮮烈に届けてくれるはずだ。
そして、そこに加わるのがエリック・ルーである。
2025年第19回ショパン国際ピアノコンクールで優勝したエリック・ルー。その演奏を筆者はワルシャワのコンクール会場で聴いた。圧倒的な技巧を誇示する演奏家が少なくないコンクールという場で、彼の音楽はむしろ真逆の方向を向いていた。音を外へと飛ばすようにして自分の存在を主張するのではなく、作品の内部へ静かに入り込み、聴く者をその世界へといざなう。二次予選のソナタ第2番〈葬送行進曲〉で感じたのは、「設計ではなく思想、運動ではなく詩情」と呼びたくなるような、張りつめた音楽だった。
ただし、ルーの魅力を「内省的」という一語だけで捉えることはできない。
それは、彼のシューベルトの録音を聴くと、さらによくわかる。2024年に録音された2つの即興曲集では、何か奇抜な解釈を打ち出すわけではないのに、冒頭のわずか数音から、こちらが抱いていた作品の像が塗り替えられていく。速度や声部の強調といった、言葉で説明しやすい特徴を前に押し出さすことなく、それでも音楽は聴き手を遠く深い場所へと連れていく。
そこには、ルーならではの時間の流れがある。フレーズとフレーズのあいだに置かれる、数値では測り切れない間。濃淡に富む和音、語るように歌う旋律、そして深い呼吸に支えられた拍感。それらの音が聴き手自身の感覚や記憶と結びつき、心の奥に沈んでいたものへと触れていく。
もちろん、静謐さだけのピアニストでもない。ショパン・コンクールのライヴ録音を聴けば、時間をたっぷりと取りながら詩情を立ち上げる一方、必要な場面では舞曲のリズムに確かな重みを与え、ソナタ第3番終楽章では地面を蹴り上げるような躍動さえ聴かせていることに気がつくだろう。多彩な音色と緻密な時間感覚、その奥に確かな推進力が潜んでいることも、ルーの大きな魅力なのだ。
今回、彼が向き合うのはチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番。あまりにも有名な冒頭の主題や、華麗な技巧ばかりに耳を奪われがちな作品だが、その内部には、繊細な歌、陰影に富んだ抒情、そしてピアノとオーケストラとの絶え間ない応答が息づいている。
一音の色合いや、音と音のあいだに流れる時間を大切にするルーが、この大きな協奏曲から何を聴き取り、何を描き出すのか。そして、ズヴェーデンとともに変化のただ中にあるESOが、それにどう応えるのか。
名曲を聴く楽しみに加えて、三者が出会うことで初めて生まれるものを聴く――。今回の公演は、そんな期待を抱かせてくれる。
ESOの活動の一つに、交響曲に光をあてる録音がある。長年ESOを率いてきたゲアノート・シュマルフス(現桂冠指揮者)とともに、ドイツのcpoレーベルで、テオドール・フォン・シャハトやフランツ・ラハナーの交響曲を録音してきた。
シャハト(1748〜1823)は、レーゲンスブルクのトゥルン・ウント・タクシス侯の宮廷に仕えた、ベートーヴェンと同時代の作曲家。ラハナー(1803〜90)はシューベルトの友人で、のちにミュンヘンの楽壇で重きをなした人物である。ESOは、彼らの交響曲を「発掘された珍しい曲」として扱うのではなく、管楽器や金管の色彩、親しみやすい旋律の歌を、軽やかな活力とともに描き出していく。未知の作品にも誠実に向き合い、一つひとつの楽想を生き生きと歌わせる。その積み重ねが、いまのESOの土台になっているのだろう。
ワーグナー:楽劇《ワルキューレ》 WWV 86B 第3幕:第1場 前奏曲(ワルキューレの騎行) — 香港フィルハーモニー管弦楽団 スチュアート・スケルトン(テノール) ファルク・シュトルックマン(バス・バリトン) マティアス・ゲルネ(バリトン) ほか
チャイコフスキー:交響曲第5番 ホ短調 op.64 第1楽章 — ダラス交響楽団
大阪ザ・シンフォニーホール
2026年10月28日(水)19:00開演(18:00開場)
S席 ¥10,000 / A席 【完売】 ¥5,000(全席指定・税込)
京都京都コンサートホール大ホール
2026年10月30日(金)19:00開演(18:00開場)
S席 ¥10,000 / A席 【完売】 ¥5,000(全席指定・税込)