

Arisa Iida飯田有抄(クラシック音楽ファシリテーター@podcast「大人の音楽三昧」)
名曲には、たいてい「聴き手が紡ぐ物語」がついてくる。けれども、その物語が作曲家自身の言葉や思いとの間に違いがあったり、後世の研究によって見直されたりしている作品も少なくない。今回のプログラムに並ぶ三曲は、まさにそうした作品たちだ。
作曲家が音楽に込めたものと、私たち聴き手が受け取ってきたもののあいだに生まれた「ずれ」に関心を寄せながら、それぞれの作品がたどってきた物語を紐解いてみよう。
この曲の発想の出発点は1906年にまでさかのぼる。この頃、モーリス・ラヴェルは「ウィーン」というタイトルのもと、ワルツの王ヨハン・シュトラウス2世への賛歌を構想していた。彼はその構想を、「ウィンナ・ワルツの神格化に、幻想的で宿命的な渦の印象がまじったもの」と説明している。優雅な宮廷ワルツを極限まで美しく磨き上げつつ、踊るうちに我を忘れてのみ込まれていく陶酔の感覚の表出だろうか。
創作はいったん途切れたものの、第一次世界大戦をはさんだ1919年から翌年にかけて、その筆は再び動き出し、圧巻のオーケストラ作品として結実することになった。 優雅なワルツが、少しずつ抗いがたい巨大な渦へと変貌してゆく。ラヴェルの書いたスコアには、「渦巻く雲の切れ間から、ワルツを踊る男女がかすかに見える」「1855年ごろの皇帝の宮廷」という趣旨の言葉が添えられている。
折しも第一次世界大戦の爪痕が生々しい時代、同時代の批評家たちはこぞって、この音楽に古き帝国の崩壊や「死の舞踏」の寓意を重ね合わせ、時代の破滅劇として読み解こうとした。だがラヴェル自身は、当時のインタビュー記録が伝える通り、そうした象徴的な深読みをきっぱりと退けている。彼が語ったのは、踊り手たちがワルツそのものに酔い、高揚してゆく、幻覚的な恍惚そのものだった。
もともとこの曲は、バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)を率いるディアギレフの依頼を受けてバレエ音楽として仕上げられたものだった。しかし、完成したスコアを聴いた彼は「傑作だが、バレエではない。バレエの肖像画だ」と上演を断ってしまう。劇場での上演を拒まれたこの音楽は、1920年12月12日、パリのコンサートホールであるサル・ガヴォーにて、カミーユ・シュヴィヤール指揮のラムルー管弦楽団の演奏会で初めて響き渡った。
聴きどころは、まず何といっても冒頭だ。立ちこめる雲のような響きのなかに、ワルツの断片がかすかにのぞく。そして、同じ旋律が戻るたびに、響きの色合いが微妙に変化していく。さすがは「管弦楽の魔術師」の異名を取るラヴェルのオーケストレーションだ。音楽はやがて拍子の足取りが乱れ、目まぐるしい渦が巻き起こる。そこに惨事の予感を聴き取るか、それとも陶酔の果ての衝撃を想うか。その答えは、すべて聴き手の耳に委ねられている。
1874年のクリスマス・イヴ(ロシア旧暦)。ピョートル・チャイコフスキーはモスクワ音楽院で、親友のピアニストであるニコライ・ルビンシテインに向かって、2台ピアノ版でこの新しい協奏曲を披露した。のちに作曲者が手紙に綴ったところによれば、ルビンシテインから返ってきたのは「演奏不可能」「不格好」といった、あまりにも辛辣な評だった。深く傷ついた彼はその場で「一音も直さずに出版する」と言い放ち、献呈先を名ピアニストのハンス・フォン・ビューローに定めた。
その結果はどうだったか。1875年10月、ボストンでのビューローの独奏による世界初演は、熱烈な歓迎をもって迎えられた。同年12月のモスクワの初演では、独奏をタネーエフが務め、なんと指揮台にはあのルビンシテインその人が立った。さらに彼は1878年、みずから独奏者としてこの協奏曲を弾いている。つまり、冒頭の拒絶は決して物語の結末ではなく、ドラマチックな序章にすぎなかったのだ。
冒頭では、ホルンの呼びかけにピアノの分厚い和音が応え、弦楽器が雄大な旋律を歌い上げる。ところがこの極上の旋律は、冒頭で二度奏でられるだけで、その先の本編にはもう戻ってこない(これこそ、古典的な形式美を重んじるルビンシテインが「不格好」と断じた一因かもしれない)。なんとも惜しげもなく手放してしまう、圧倒的な贅沢さだ。
さらに第1楽章には、ウクライナで耳にした盲目の歌い手の旋律が一部取り入れられており、終楽章にもウクライナの民謡が、第2楽章にはフランスの流行歌がひそんでいる。耳を澄ませばまるで、チャイコフスキーが集めた旋律の宝石箱をのぞいているような楽しみが味わえる。
1936年1月、ソ連共産党の機関紙『プラウダ』が、ドミトリー・ショスタコーヴィチのオペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人》を激しく批判するという事件が起きた。観劇に訪れたスターリンの逆鱗に触れたことが発端で、「音楽ならぬ荒唐無稽」と題する批判論文が掲載されたのである。
背景にあったのは、ソ連の急激な思想統制の強化である。ロシア革命後の自由でアバンギャルドな前衛芸術の実験は終わりを告げ、スターリンの独裁体制のもと、国家を称えるわかりやすい芸術――いわゆる「社会主義リアリズム」が絶対の教条として芸術家に強要され始めていたのである。折しも世は、異分子を次々と排除する大粛清の狂気が広がりつつあった時代。 当局の方針から外れることは、単なる批判にとどまらず、文字通り命を奪われかねない極限の危険を意味していた。 実質的な「死刑宣告」とも受け止められたこの批判を受け、ショスタコーヴィチは逮捕の恐怖に怯えながら、完成間近だった前衛色の濃い交響曲第4番を机の奥へと封印する(日の目を見たのは1961年だった)。まさに自らの生命と芸術家生命を賭け、喉元に刃を突きつけられたような絶望のなかで、1937年の春から夏にかけて書かれたのがこの交響曲第5番である。
同年11月21日、レニングラードで行われた初演はムラヴィンスキーの指揮によって行われた。喝采は長く続き、第3楽章ラルゴでは涙を流す聴衆もいたと伝えられている。のちに新聞には、作曲者の言葉として「正当な批判に対するソビエトの芸術家の実際的な回答」という一文が載り、これが公式の捉え方となった。
だが、終楽章の圧倒的な輝きを放つ勝利は、はたして本当に純粋な歓喜なのだろうか。1979年に出版された『証言』は、作曲者の回想として、これを「強制された歓喜」と記している。しかし、この書物の真偽自体が専門家のあいだで長年議論されており、作曲者の真意をめぐる論争はいまなお決着を見ていない。
弦楽器の鋭い跳躍で始まる第1楽章から、皮肉な響きをたたえた舞曲の第2楽章、深い祈りのような第3楽章をへて、終楽章のまばゆいニ長調の和音へ。九十年近い時を経た今も、あの日の喝采がいったい何への拍手だったのかを、音楽は静かに問いかけている。
私たちが向き合う三つの物語に共通するのは、作品がひとたび作曲家の手を離れると、聴き手の耳のなかでさまざまな意味を変えながら、いきいきと生き続けるということだ。ヤープ・ヴァン・ズヴェーデンとエバーグリーン交響楽団、そしてピアノ独奏のエリック・ルーが、今回の三曲からいったいどんな音を引き出してくれるのか。ぜひ会場に足を運び、ご自身の耳で確かめてほしい。
ズヴェーデン指揮、ニュウ・ニュウ ピアノ独奏、香港フィルハーモニー管弦楽団
ズヴェーデン指揮、香港フィルハーモニー管弦楽団
大阪ザ・シンフォニーホール
2026年10月28日(水)19:00開演(18:00開場)
S席 ¥10,000 / A席 【完売】 ¥5,000(全席指定・税込)
京都京都コンサートホール大ホール
2026年10月30日(金)19:00開演(18:00開場)
S席 ¥10,000 / A席 【完売】 ¥5,000(全席指定・税込)
ヘッダー画像:ドミトリー・ショスタコーヴィチ © V. Mastyukov / Glavarkhiv Moskvy(CC BY 4.0)